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中国西安市三蔵法師大慈恩寺締結寺院 伝統仏教水子霊場会 龍神滝身代わり不動尊 

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法話集ほかHEADLINE

こころの筏

万灯会の由来  


 質問  万灯会という多くの火を灯す行事について、俗人はよくその由緒を訊ねてくるが、まだ
     その由って来る所を知らない。その意義はどういうものだろうか。

 回答  万灯会のことは、もっともな由緒がある。一巻の『菩薩蔵経』には「十千の灯明を燃や
     して、衆罪を懺悔す」とある。「十千」をいうのは万である。また、『性霊集』には、高野
     山万灯会の願文がある。その詞は、金剛峰寺において聊か万灯万華の会を設けて、
     両部曼荼羅、四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度この事を設け奉って、四恩
     に答え奉らん。
     謙虚尽き、衆生尽き、涅槃つきなば、我が願いも尽きん。

 大師がこれほどに誓願なされたのであるから、どうして功徳が少ないといえようか。だから世間
でも、「長者の万灯より、貧者の一灯」という言葉が流布している。

 阿闍世王は、仏を迎え奉って説法を聞いたが、夜になって帰るとき、王宮より祇園精舎まで、
十方国土の油を集めて数万の火を燃やした。ある貧女はこれに随喜して、やっとのことで銭を
二文ほど得て、それを油に替えて火を燃やした。この功徳によって三十一劫を経て仏に成り、
須弥灯如来といわれるだろう、と世尊は言われた。これを貧者の一灯という。

 灯明の功徳のことは、諸経に多く明らかにされている。たとえば南京(奈良)の薬師寺の万灯
会は、恵達という者が始めたので、その法会の日は、必ず恵達の廟に光明があるといわれて
いる。恵達は三十八歳、寛平五年(八九三)より始めて、天慶二年(九三九)八月二日に八十三
歳で入滅するまで、四十六年間、遂に断絶することがなかったという。
また天武帝は、天平十八年(七四六)十月に、金鐘寺(東大寺の前身)に行幸され、七万五千
七百の灯を燃し、数千人の沙門をして謌唄讃頌して仏像を廻らさせられたという。聖武天皇は天
平勝宝四年(七五二)正月に東大寺に行幸され、二万灯を燃された。白川院は寛治二年(一〇
八八)二月二十二日、高野に御幸の時、奥の院の石段の上に三万灯を燃された。その証拠は
数えることができないほどである。

『塵添藍嚢鈔』より
・・・合 掌・・・

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